香港映画界に苦言というニュースではあるが、ウォン・カーウァイ健在というニュースでもある。同じ不振でもどうだろう、筆者の目には日本映画界の方がよほど不振ではないだろうか。
少なくとも香港にはウォン・カーウァイがいる。先頃の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」の、芳醇なワインのごとき酩酊を催すような作品はついぞ日本映画に見出せない。
第一、ウォン・カーウァイにくらべてみたくなるような映画作者となると、まるで思い至らない。
日本映画の不振は撮影所システムと密接な関係があるとも言われる。
名人と思しき裏方たちが構成する基本的な流れがもはやない、ということである。或いは徒弟制度のごとき養成システムが崩壊したせい、とも言われる。しかしそれは遠因ではあっても原因とはとても言えない、とも感じるところである。
そんなものが無くても香港映画は勃興した。ヌウヴェル・ヴァーグだって、まさしくそんなものへの反逆から生み出されてきたものである。ゴダールだって、トリュフォーだって、素人くさい作品など1本もないのである。なによりテクニシャンとしての技術に裏打ちされた映画造りだったのである。彼らはその種の学校にすら通わず、映画の歴史に在る名作をつぶさに観ることで技術すら学んだのである。
ウォン・カーウァイなど、もはや他の追随を許さぬ独創的な文体をすでに示し、映画の地平を押し広げている。ウォン・カーウァイの苦言はおそらく仏造って魂入れずの映画造りに向けられているのではないだろうか。骨組みだけはあっても一向に面白くない作品とは、作法はあっても一向に語るべき中身を持たぬ作者の存在に向けられてもいる気がする。
そう言えば増村保造が死して以降、作者の名で日本映画を観に行く習慣が久しく失われていることに気づく。語るべき何かがあれば、おのずと述べるべき作法は、形作られる。
なによりそのことに想いが至る、ウォン・カーウァイの存在である。
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