教祖の写真が出ていないけれども、これまでも似たようなことは日本にも幾度もあった。溺れる者藁をも掴む、というが、それは藁と知らずに掴むので、冷静を失うとワラも藁に見えないというたとえでもあるだろう。
この宗教に関わりを持たない部外者がこの教祖の顔を見れば、たいがいその教祖は藁そのものの場合が多く、とても命を預けるような対象にはならないということにすぐさま気づく。たいがい気づくはずなのに入信した信仰者(溺れる者)には後光が射して見えるのだろう。
信仰の不思議は盲信の不思議で、いつも思うのは信仰を進めるほとんどの人が幸福そうではないということに気づけば、その岐路にも気づく。
要は同病相哀れむ、の世界に連れて行かれ、共感現象を重ねるうちに、なんでもすべてを肯定してしまう境地に導かれていくのだろう。
教祖の顔を見ただけでまるでホームレス、と感じる部外者と、この世を超える特別な人と感じる信奉者、この落差は大きい。
宗教も多くの場合、金品を捲き上げるシステムに過ぎない、ホトケの顔も金次第なんてことも、冗談交じりに客観的な立場で少しは思う人も、いざ溺れてしまうと、まさしく同工異曲。
迷えるものが溺れるものとなる道筋はきわめて近い。他人事と自分事の差も実はさほど差はないのが、困った時の神頼み。信仰を進める信奉者が不幸マーク、その宗教の教祖の風体がホームレス、冷静な間にこれをチェックしたほうがまずは正解、かもね。
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